9・11
2007年 9月 11日(火曜日)今日は、9月11日ですね。
あの「9・11」の時、皆さんは、どこで何をしていましたか?
私は、お客さん先で仕事(打ち合わせ)をしていました。
打ち合わせ後、何となく周りがバタバタしていて、お客さんの部下の方がお客さんに、「何かニューヨークで飛行機がビルに突っ込んだらしいですよ。」と。
ものすごいことだとは思いましたが、正直その時点では、よく理解できませんでした。大変な事故だと思いました。
その日は結局、夜遅くなったのでタクシーで帰りましたが、帰った後、ずーっとテレビを見ていました。
- 何度も何度も繰り返される映像
- それが、テロによるものであること
- そして、ビルの崩壊
それが現実に起こっていることだとは、やはり俄かには信じがたかったですが、深夜に何度も何度も見ていると余計に物事がわからなくなってきました。
小さな会社でしたが、「テロに対する断固たる姿勢を表明すべきだ」、と私は主張していました。
でも、正直に言うと、テロとは何か?断固たる姿勢とは何か?本当に断固たる姿勢を貫けるのか?よく考えていませんでした。
その後国際社会は、アフガン戦争~イラク戦争へと流れていきます。
確かに、物事を暴力では解決しない、という方法を模索し続けたのが、人類の歴史だと思います。そのための社会システムが考えられ、弱者救済措置が考案され、核戦争も今のところは回避されています。直接の暴力を使うのではなく、核をはじめとした強力な武器を巨大な抑止装置として、平和的に利用する、それが大人のやり方のようです。
でも、冷静に考えて、それってどうでしょう?
例えば、ですよ。
私が誰かと交渉をしようとしていて、ちょっとまだお互いの主張に隔たりがある時、
相手方の後ろには、身長2mを超える大男が3人もいて、怖い顔をしている。
私が何か言おうとすると、鎖鎌を振り回したり、カンフーの型をやったり、拳銃を構えたり、それも直接私にではなく、家族に対してそういうものを見せたりしていたら、
それはまともな交渉になるでしょうか?それを何かの抑止力と呼ぶでしょうか?常識的には、それは「脅迫」と呼ぶのではないかと思います。
経済にしても、同じこと。
大きな資本を動かせる組織と、小さな資本しか動かせない組織が、同じ土俵で戦うことは可能なのでしょうか?
一人の人間が考えても、答えは出ないような気がします(よほどの天才なら別ですが)。
ところが、人類1万年の歴史は、過去の様々な状況の中で、必死に生きた人々の相違と工夫を学ぶことができます。そして、必ずしも強者が勝つわけではないことも、歴史は証明しています。
もっと飛躍して、例えば鮭の受精を見てみましょう。
1匹のメスに対して、受精したいと思っているオスは複数います。
その時、体の大きいことが大変なメリットになります。
体の大きいオスは、体の小さいオスを、いとも簡単に遠ざけることができます。
ところが実際には、体の小さいオスが、その瞬間を捕らえて、すばやく行動することによって、目的を達することがあります。
今の現実にぶちあったった時、自分ひとりではどうしようもない時、
そういう時に、学問は真価を発揮するのではないでしょうか。
逆にそういう「渇望」がない限りは、学問って難しいのかもしれません。
だって、のんびりと自分の身の回りのことだけ考えてれば、それだけで結構充実するし、それなりに忙しいし。だから、そういう人は、幸せだなーと思います。
話は大分それました。
9・11及びその後の歴史は、100年後、200年後の教科書には、どのように記述されるのでしょうか?