[哲学]

仕事とは何か、勉強とは何か

2007年 10月 14日(日曜日): inoppi

有名な『建築現場の3人の男の話』

中世ヨーロッパのとある町。

建築現場で働く男に、通りがかりの人が聞いた。

「何をしているのか?」

Aさん: 「見ればわかるだろ、レンガを積んでるんだよ。」

Bさん: 「金を稼いでいるのさ、あんたも同じだろ。」

Cさん: 「町の大聖堂を作っているのさ。」

いろいろな捉え方がありますね。

では、この話の応用で、「勉強」の場合、どうでしょう?

Aさん: 「この問題集をやってるんだ」

Bさん: 「いい大学に入って、いい会社に入るんだ」

Cさん: 「立派な人間になって、将来人の役に立つことがしたいんだ」

こんな感じでしょうか?

いまどき、Cさんみたいなことを言う人って、いるのでしょうか?

私の祖父が、最期に私に言った言葉は、そういう言葉でした。

ちなみに、祖母は私に、「偉い人にならなくていい。立派な人になりなさい。」と言いました。

生物と無生物のあいだ

2007年 10月 4日(木曜日): inoppi

著者: 福岡 伸一

★★★★★

がんばれば、高校生でも読めるかな?

もしくは、高校生向けの解説本があってもいいかも。

【魅力】

・ 遺伝子発見の物語は、ミステリーを含みつつ、物語として面白い

・ 研究者の生活ってこうなんだーって憧れが生まれるかも

・ 「科学的に証明する」ってこういうプロセスを踏むのね

・ 生命の、「超精密なシステム」の不思議と感動

・ 「生命とは流れである」==哲学的でもありますねー

【私が感動した点】

・ チャンスは、準備された心(prepared mind)に降り立つ

同じ経験をしても、同じものを見ても、

前提となる知識や経験がないと、本当の価値は見出せない。

最近、実感としてよく思うこと。

Are you ready?

Am I ready?

・ 原子はなぜ、そんなに小さいのか?(シュレディンガー)

わかりやすくするために、仕方ないのだが、

『もののスケール』って逆にわかりにくくない?

地球の大きさ、太陽系の大きさ、分子の大きさ、原子の大きさ。。

どれも、似たような模型で説明されてしまうため、

本当はどれほど大きいのか、小さいのか、実感なくない?

わかりやすいことが、いい面もあり、またそうでない面も。

【私が疑問に思った点】

・ 不完全な遺伝子をノックインすると

本書の一番最後になるのですが、

あるアミノ酸を、完全に生成しないような遺伝子をノックインしても、生命の絶妙なバックアップ装置が働いて、何も異常は起こらない

同じアミノ酸を、不完全に生成する遺伝子をノックインすると、バックアップ装置が働かず、異常が発生する

という記述がある。

私には、正直よくわからなかった。

生命は、1つのアミノ酸生成に対して、

・ 「うまいこと」、完全に生成できなければ問題ないが、

・ 一部だけに異常が起こると、問題が起こる

と、読めてしまったから。

そんなはず、ないんじゃないの?

だって、自然界では、「うまいこと」、完全にあるアミノ酸が生成できないような異常が起こるなんて、超偶然じゃない?

本当にそうなら、バックアップとしては、弱すぎじゃない?

以下は、私の勝手な解釈。

『たまたま』、ある部分の遺伝子コピーに失敗した場合には、バックアップ可能だが、

『たまたま』、別の部分の遺伝子のコピーに失敗した場合は、バックアップ不能である。

失敗したって平気なものと、致命的なものがあって、

両者同時に起こった場合は、平気(な場合もある)

ということではないのかな?

機会があれば、著者に聞いてみたい。

いずれにしても、

生命のとても、とても、精巧なシステムに感動!

部分は、とてもシンプルな活動しかしていなく、

全体として、ものすごく機能的である。

所詮、人間の考えることなんて対したことないね~。

わたしは、うつくしいものが好き。

何をうつくしいと感じるかは、自然であり、その奥に潜むシンプルな法則。

それって、小さい頃から自然に囲まれ、学校では数学を教わったからだと思う。

2007年 9月 20日(木曜日): inoppi

唐突ですが、死について、考えてみました。

果たして、私は死ぬのだろうか?

人が死ぬことは、知っている。

私も何人か、そうなった人を知っているし、その人と直接会うことや話すことは、もうできない。

人は、必ず死ぬもので、私もいつかそうなるのだろう。

それはいい。

それはいいんだけど、主観的に見た場合の死とは、一体なんであろうか?

あまり魂とか、そういうことを考えない場合、

死んだら、自分というものは、永遠になくなる。無になる。

たとえば、ある瞬間から、「死」という状態になるとすると、今まで存在したものが、その瞬間に無になる。

無になった時に、私はどうなるのだろう?

無になるんでしょう。

無であるということは、自覚はないだろう。

逆に自覚のあるうちは、おそらく死んでない。

つまり、生きてる自分しか、自覚することができない。

それって、自分は死なない、って言えないだろうか?

もう一つ、時間というものも、考えてみよう。

時間って何でしょう?

時計がカチカチ動いてる、それが時間でしょうか?

楽しいことをしている時は、時間があっという間に過ぎる。

逆に嫌なことをしている時は、いつまで経っても時間が過ぎない。

誰にでもある経験ですよね。

つまり、客観的な時間と、主観的な時間は、一致しない(場合がある)。

死の瞬間、主観的な時間はどうなってるんでしょう?

よく、大きな事故にあったときなど、「スローモーションですべてが見えた」という話を聞きませんか?

もし、生命に重要なことが起こる時、感覚が研ぎ澄まされて、時間として長く感じる、ということがあるとすれば、

死こそ、生命にとって、最重大事ですよね。

死の瞬間に、もし感覚が研ぎ澄まされ、時間として長く続くとすれば、それは死ぬまで続くわけだから、

主観的には、「永遠に」その時間が続く、と言えないだろうか?

客観的に見て、一瞬の出来事でも、その時間を細かく、細かく、細かく、分割して、その間にいろいろなことを考えたりできるなら、死の瞬間は、永遠に続く、と言えないだろうか?

ゼノンの言う「飛んでいる矢は止まっている」みたいな話ですが。

(ゼノンの逆理(パラドックス))

その時、何を考えるんでしょうね。。。

自分は死なない、というのは、恐ろしいような、気楽なような。。。