[論理学]

2007年 9月 20日(木曜日): inoppi

唐突ですが、死について、考えてみました。

果たして、私は死ぬのだろうか?

人が死ぬことは、知っている。

私も何人か、そうなった人を知っているし、その人と直接会うことや話すことは、もうできない。

人は、必ず死ぬもので、私もいつかそうなるのだろう。

それはいい。

それはいいんだけど、主観的に見た場合の死とは、一体なんであろうか?

あまり魂とか、そういうことを考えない場合、

死んだら、自分というものは、永遠になくなる。無になる。

たとえば、ある瞬間から、「死」という状態になるとすると、今まで存在したものが、その瞬間に無になる。

無になった時に、私はどうなるのだろう?

無になるんでしょう。

無であるということは、自覚はないだろう。

逆に自覚のあるうちは、おそらく死んでない。

つまり、生きてる自分しか、自覚することができない。

それって、自分は死なない、って言えないだろうか?

もう一つ、時間というものも、考えてみよう。

時間って何でしょう?

時計がカチカチ動いてる、それが時間でしょうか?

楽しいことをしている時は、時間があっという間に過ぎる。

逆に嫌なことをしている時は、いつまで経っても時間が過ぎない。

誰にでもある経験ですよね。

つまり、客観的な時間と、主観的な時間は、一致しない(場合がある)。

死の瞬間、主観的な時間はどうなってるんでしょう?

よく、大きな事故にあったときなど、「スローモーションですべてが見えた」という話を聞きませんか?

もし、生命に重要なことが起こる時、感覚が研ぎ澄まされて、時間として長く感じる、ということがあるとすれば、

死こそ、生命にとって、最重大事ですよね。

死の瞬間に、もし感覚が研ぎ澄まされ、時間として長く続くとすれば、それは死ぬまで続くわけだから、

主観的には、「永遠に」その時間が続く、と言えないだろうか?

客観的に見て、一瞬の出来事でも、その時間を細かく、細かく、細かく、分割して、その間にいろいろなことを考えたりできるなら、死の瞬間は、永遠に続く、と言えないだろうか?

ゼノンの言う「飛んでいる矢は止まっている」みたいな話ですが。

(ゼノンの逆理(パラドックス))

その時、何を考えるんでしょうね。。。

自分は死なない、というのは、恐ろしいような、気楽なような。。。

中・高校に「法教育」を-法曹三者出前講座開催へ

2007年 8月 17日(金曜日): inoppi

四国新聞社の8月15日の記事です。

中高生向けに、思考力や判断力を高めることを目的として実施されます。

私も30歳のとき、会社を辞めて司法試験を受けたことがあります。(受けるのは自由ですが、受かるのには別問題です。。。)

それまで法律なんて何の興味もなかったのですが、

時あたかも、ITバブルの絶頂で、インターネットの普及で世の中変わると。

その時に、私はIT系企業にいましたから、みんなITの方を向いて騒いでいました。

私は天邪鬼なので、じゃあ世の中変わるんだったら、法律が一番変わらなきゃならないのでは?と思い、ITのわかる法律家を目指したわけです。(今でも少々勉強は続けています)

その後、ITバブルはあっさりと崩壊しましたが、

世の中の潮流は変わることなく、世の中の変化に即したルール作り、運用の必要性はますます高まっています。

私にとって、法律の勉強は、とてもすばらしい人生の転機となりました。